昭和44年03月30日 特別奉修委員
特別奉修委員の方達がこうして日曜度に自分以外のこと、私のことやら教会のことやらを祈りの焦点にして御祈念をなさり、またそのことの信心ができておるんですけれども、自分以外のことを願う時、自分以外のことを繰り返し繰り返し一心に願わせて頂いておると、願わしておる自分が有り難うなりますね、うん。もう自分以外のことを願わせて頂いておる自分が有り難いのですね、きっと。
自分のことを願う時にはそうでもないけれども、自分以外の者のことをこれだけ一生懸命祈れておるということが有り難いんですね。そこに、また神様がそのことを喜んで下さるのかもしれません。ですからもしそういう自分以外のことを祈らして頂けれる楽しみというものがね、そういう喜びというものがだんだん育っていくことが信心が育っていくことだと私は思いますね、うん。
自己中心の信心がどんなに何十年巧者にできたところで大したことはないですよ。それは育っていきよるとは言われませんよ。自分のことじゃけん、わがことくだらんもんはおらんちゅうとおりですよね。けどもそれが自分以外のことがこうして祈れれる、ね、ですから祈れれることがこれはもう確かにね、自分以外の者のことが祈れれる。例えば自動車乗って行きよってでも。
さあっとすれちがう車のことをこう祈らせて頂くことは有り難いでしょうが。そのことが有り難いでしょうが。それがましてんなら、お初穂までさして頂いてその人のことを祈るのですから、それがだからね、只形式であるとか、只お付き合いであるという時には決して喜びはわきません。ですから私共ここに思わにゃならんことはね、その喜びが当然湧かなきゃならんはずです。
そのことが祈れたら、自分以外の者のことが繰り返し一心に祈れたら。だから、それが喜びになってこないならちょっとやっぱ考え直さにゃいけんですね。自分のこれは形式のようなものだということになってくるんです。例えばいくらそれこそお供えしてあってもお初穂してあっても、そのお初穂やお供えやらは、まあ言うならば最近頂く御理解の中から頂くならば、ね、あの桜切る馬鹿になるかもしれませんよ、ね。
梅切らぬ馬鹿、ね。ですから言うならまあ、とまではならんでも、大した値打ちはないような感じがいたしますですね。拝詞を奏上さしてもらい、天地書附を奉唱さしてもらう時にそのことが、ね、一心に願え、おかげは和賀心にありと。例えばその和賀心にありという願いが、もうそのことのために一生懸命信心しておるという思いが天地書附奉唱の時にはずっとそれが深まっていかなきゃうそだと思うです。
只あれが形式に只唱えられておるというだけで、ね、拝詞でもそうです。教祖様を初め、歴代金光様には夜となし昼となし、お祈り続けてくださってあると、ね。世界真の平和を祈っておって下さるんだ、世界総氏子立ち行きを祈っておって下さるその祈りを受けて、私が祈っておるというところにあの拝詞奏上の値打ちがあるのですよ。それを只、さあっとこうあげるだけであったら値打ちはないのです、ね。
そういう事がです、信心が育っていきよるという事によって、あの実感唱えさして貰うあの言葉がそのまま自分のものになっていくんです、ね。先日も夢に「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という御理解を頂いて、夜の御祈念に頂いたその事を。そしてそのあくる日にかけてその事もちょっと出ましたから、非常に反響を呼びましてね、もう皆さんお届けされるんです、私の場合は是は本当に桜切りよった感じがすると。
本当に切る時切らにゃつまらんというその、梅切らぬ、梅切らぬ馬鹿なんだ。梅は切らなければ伸びないんだ。そういう素晴らしいきり方ができずに、言わば桜の木を切りよるというような自分に気付かして頂いて、そこから例えばならこれはお金だけのことじゃないにしましても、お金の使い方がね、銘々考えさせられる。またはその度に使う度に、これは桜ではなかろうか、これは梅じゃろうかとこう、いちいち自問自答しながら、使わせて頂くというふうに聞くんですけれど、それは有り難いこと、ね。
だからそういうような、いよいよ梅切らなければならない、今こそこれはぼんぼらぼん切らなければ、来年の花も実りもないんだというような時にですね、切らんならん時の度胸が今日は私は申します信心が育っていかんと切れんて、ね。信心が育っていくということはです、自分以外のことが繰り返し繰り返し祈らせて頂けたら必ず有り難くなるです。その必ず有り難くなるのが有り難くならん時には、あなた達のは形式だということになるわけ、ね。だから本当に繰り返し繰り返し祈ってごらんなさい。
心から祈って御覧なさい、しかもそれにお初穂までしてから祈ってごらんなさい、うん、必ず有り難うなる。例えば袖擦り合うも多少の縁というから、その袖擦り合うの難儀な人を見た時に、その方を一心に祈る、祈っておる自分が有り難いでしょうが、ね。このようなことが祈れれることになっておる自分が有り難いでしょうが、ね。その有り難いを育てていくのが信心だと私は思う。それが育っていくことだと思うですね。
どうぞ。